仏法は難しい?

仏法はむつかしい。よく聞くことばだ。仏教の言葉がむつかしい。説教の筋が複雑でよくみえない・・・などの理由のほかに、響くかどうかということだ。

わたしたちの日々自らの身を立てるための計算のほうが複雑で、仏法のほうはシンプルなのかもしれない。損得や自尊心や嫉妬心など、そんな心が起きれば、こんがらがってなかなか解くことができなくなる。

 仏さまのこころは、みずからのことは擱いておいても、衆生にほんとうの幸せを与えたいとねがう。わたしたちのほうは自分の立場に固執している。ぜったいに自分が惨めな立場にならないようということにすべてのエネルギーを使っているといってもよいほどだ。
 
 仏のひろやかなこころにふれてみれば、自分のはからいがいかに狭く小さなことにこだわる、恥ずかしいものだ気付かされる。
 人との関係でも、ちょっとでも自分の立場が悪くなりそうになれば、そこから逃げ出したくなるし、ちょっとでも立場がよくなるほうにすぐ誘惑されてしまう。主体性のない情けない姿に気付く。

 仏心にふれたときの気づきが、慚愧(ざんぎ)心。慚も愧もともに恥ずかしいと自らの姿を知った心だ。
 そのような姿を知ったとき、他人の至らないこと受け入れることが出来る。そこで格闘していることににも敬意を持つことが出来る。そこからほんとうのひととひととの関係が作られる。
 自分の姿がわからず、よいものとしていると、他を軽んじる。信頼と尊敬が無ければひととの関係はできないだろう。仏法を尊ぶこころもおこらない。なにも尊ぶものがなく、尊敬しあう人間もなくなる。現代人の陥った闇ではないだろうか。

 




私たちの体とこころは、仏心を入れる入れ物として用意されている。こそくな計算をするためだけに使われてはならない。