JT生命誌研究館 館長 中村桂子氏の回答

先日投稿した掲示版(生命誌)で回答がありましたので記録します。

タイトル: いのちの尊さを教えられるのか?




 昨日ニュースで、子どもの自殺者が百五十何人と発表していました。そして文科省が命の尊さを子どもたちに教えなければならないとコメントしておりました。
 しかしおとなにそれができるのでしょうか。人間中心の視点では不可能なのではないかと思います。人間だけではなく他の命と繋がった、壮大な生命の物語のなかに自分を発見することによってこそ、今いきていることの尊さが見えてくるのではないか。
 六道絵などもそのような命の物語だったのではないかと思います。しかしそのままでは現代人にとっての物語になりません。あらたないのちの物語が必要なのではないでしょうか。





お返事(BRH館長 中村桂子




 「いのちの尊さ」という言葉の意味は考えているととても難しいことです。「尊い」を新明解国語辞典で引くと、(1)高い家柄に属したり高い価値を持っていたりして、容易に近づいたり容易に求めたりはできない様子だ (2)徳がすぐれていたり、崇高な感じや深い感銘を与えるところがあったりして重んずべきだ  とあり「尊い生命」とあります。私にとっての「生命」はこの感じとは違います。容易に近づけないとか崇高な感じというのとは違い「生きていることそのものがとても魅力的なことで、どんな生きものも皆懸命に生きている健気さがある」というのが実感です。だから生きることはとても大変なこと、時には面倒になることもあるようなことなのだけれど、生きているという過程の中に他には変え難い惹きつけるものがあると思うのです。これについて書いたら、本一冊分を必要とすることですし、ていねいに言わないと誤解される危険もあり心配です。でも、この感じが生命誌の中の生命です。もちろんここでの生命は、地球上のあらゆる生物のもつものですがその中での人間の生命の特別さもあるのはもちろんです。これらは生命誌全体で語っていきたいことです。

御庫裡は取り壊されて

境内はさっぱりしてしまった。今年の年賀はがきには、建物の再建だけでなく、「お寺」という場の建て直しもしなければ、と書いたのだ。
 どこかずれるとこがあっても、。体力もないけれど、してみたいことはたくさんある。

今年最初の日記

少し休んでいた日記を始める。
今年の本格的な仕事始めは、4日からだった。もうウォーミングアップは終わった。今日は午前に法事、絵解きを行う。
 4百年前の人々の壮大な命の物語だ。現代人からは違和感があるだろう。しかし、現代人が膨大な情報を持つのにもかかわらず、かえって狭い世界に押し込められているということも見えてくる。そして今手に入れているこの生そのもの意味を見失っているのだはないかと気づかせる。仏法を聞く基礎が崩れ去っているのではないかと語りかけてくるように思う。

昨日今日は名古屋

何となく季節感がないまま年がくれそうな。

昨日今日と息子の下宿の引っ越しを手伝った。終わって食事を摂る。藤が丘はよい店が多い。まち自体の雰囲気も、並木道があり落ち着いている。どうしてこういう町ができていくんだろうか。まだ歴史は浅い若い町だと思うのだけれど。

所々に昔ここが山だったであろうと思わせるような落葉樹の林が遺されている。

また訪ねたら写真を撮ってこよう。

親戚のお寺の法事で

今日は午前と午後と親戚のお寺の法事。午後は名古屋だから急いで駆けつけた。会食のとき、そのお寺の前住職の娘婿が、会社の役員を退職してから宗門大学へ通ったことを聞く。
 それは舅の信仰に対する真摯な態度が影響したと言われた。そんな風に伝わっていくのかと少し感動を覚えたのだ。あらたまって生前に住職から説教を聞いたとかいうのではなく、伝わるものがあったのだ。求道の姿勢だろう。