仏教

 では、寺にいる私自身にとっての仏教はどのようなものなのか。
「傲慢なわたしのありかたに気づかせるものとしてはたらくもの。
慚愧心(ありのままの私の姿をはずかしいと知らせるはたらき)だ。それが傲慢なわたしのこころをやぶって、自分の姿を知らせる。」

 ほんらいの自己に立ち返り、てらにあって、いろいろなことに対面するとき感謝する視点をあたえてくれる。そう、「慚愧」が自己を見失わせないはたらき。そこに深い感謝、報恩という心(シン)が、与えられる。

 喜捨ということも、この報恩の心から生まれるのではないでしょうか。それはお金を喜捨するということに限らず、なす事すべての根元の動機になるようなものです。


 その深い心報恩の心が、「単調な日々だが、これを気持ちをこめてやっていく。よりよくしたいという気持ちをもち続けること」を実現させるのだ。(これは当たり前のようで続けるのは大変むつかしい。なにかあったとき奮起するのは案外出来ることだが、変わらずに続けるのは本当にむつかしいことだと思います。)

 
 これは、ほかの仕事をしている方々にも共通の問題だと思う。他の人を軽んじ、仕事が出来ることに感謝できなければ、よい人間関係もよい仕事を完成させることはできない。よい人生を完成することも不可能でしょう。

 それはお寺で生活する人だけが大事にしなければならないことではなく、人として大切なこと、不可欠なものとしてあるのでしょう。それが宗教だと思います。